チビチリガマから世界へ平和の祈りを



1945年4月1日、
米軍はこの読谷村の西海岸から沖縄本島へ上陸した。
それは、住民を巻き込んだ悲惨な沖縄戦・地上戦であった。
その日のうちに、米軍はチビチリガマ一帯に迫っていた。
翌2日、チビチリガマへ避難していた住民約140名中、
83名が「集団自決」をした。 尊い命を喪った。

あれから38年後、やっと真相が明らかになった。
その結果、83名のうち約6割が18歳以下の子供達であった。
その他、2名が米兵の手によって犠牲になった。

「集団自決」とは
「国家のために命をささげよ」
「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」
といった皇民化教育、軍国主義による強制された死のことである。

遺族は、チビチリガマから世界へ平和の祈りを、
と「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」を彫刻家金城實氏と住民の協力のもとに制作した。
しかし、像の完成から7ヶ月後、11月8日、
心なき者らにより像は無残にも破壊された。
住民は怒り、遺族は嘆いた。

全国の平和を願う人々はそのことを憤り、
励ましと多大なカンパを寄せた。
あれから7年が経過し平和の像の再建が実現した。
チビチリガマの犠牲者への追悼と平和を愛するすべての人々の思いを込め、
沖縄終戦50周年にあたり、
再び国家の名において戦争への道を歩まさないことを決意し、
ここに碑を建立する。




1995年4月2日 チビチリガマ遺族会



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